3日目〜4日目(62223日)

 この2日間をかけてオホーツクの洋上を西へ進み、長く連なる千島列島の中ほどのマツワ(松輪)島に接近して、それ以降は島を縫うように北上し、上陸することはなし。

海霧ごめの千島の富士は裾ばかり

泳ぎ来てはよ立ち去れと海馬の群れ

 両日とも午前中は海洋生物調査員の笹森琴絵氏の講演を聴く。「海洋生物の楽園〜海流と流氷が育む豊穣の海」と「ヒグマとサケの王国〜森と海をつなぐもの」の二講座だ。

 天気だけは致し方なく、そんな中で、パラムシル島(幌筵島)では船が可なり接近して、トドのハーレムを眺める。
 同じくフィヨルドの中に深く入り込んで島崖を見ることは出来た。この船はクルーズ船としては小さく、それ故に、小回りが利くのが長所なのだ。
 そして、見どころでは船をしばらく停めて眺める時間を取ってくれた。

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 オホーツク海は「太平洋の心臓」と喩えられるほど豊かな生物の宝庫、多くのプランクトンが魚類を鳥と海獣を集めると、写真を使っての話に、これからのオホーツクの生物への期待が高まる。

 クジラ、シャチ、ラッコ、オットセイなどがこの海に糧を求めて集まるらしい。だが、結論を先に記せば、結局、どれも見えなかった。見たのは、トド、エトピリカ、そして、イルカだけだった。

 海上はどんよりと雲が覆い、霧が島々の姿を隠す。富士の様な単峰山が聳える筈のパラムシル島(幌筵島)やアトラソフ島(阿頼度島)も僅かに島裾の雪渓を見せるだけだ。
 海鳥が現れて島の近くと分かるが、この雲に隠れた山容では気が滅入る。
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階の甲板に出て遠く眺め、嘆息しきりの旅客ばかり。

遊船に曲乗り成りて大喝采

夏雨や航跡しるきオホーツク 


  離れ航く北方領土夏の霧 


航跡を追うイルカらへ驟雨かな     ハーレムに鳴き交う海馬や海霧深し 


  フィヨルドの音無き滝の白さかな     海霧抜けて盗賊クカモメ迫りくる

 甲板からの景観には全く恵まれなかったが、船内では客を退屈させない様々なイベントがあった。

 3日目にはロシア人歌手エカテリーナの唄、4日目には寄席(三遊亭歌奴・江戸屋まねき猫)があり、船ならではの楽しみを味わえた。他にも大道芸やコンサート、囲碁将棋麻雀部屋、ジムの部屋などもある。

雪渓のフィヨルドを観て船返す

1819世紀に至り、ロシアの南下政策と蝦夷経営を強化する日本の間でいくつかの摩擦と衝突があり、国境の策定への動きが高まった。

1855年(安政元年)の日露和親条約が江戸幕府と提督プチャーチンの間で締結され、千島列島の択捉島とウルップ(得撫島)の間に国境線が引かれ、樺太においては国境を設けず、両国民とアイヌ混在の地と決められた。

この択捉島以南の4島を南千島、ウルップ(得撫島)以北を北千島と呼ぶ。

@しかし、樺太では、混在による衝突も多く、やがて、1875年(明治8年)の樺太・千島交換条約をもって、平和裏に樺太はロシア領、千島列島18島は日本領とされ、国境線は列島最北の占守島(シュムシュ島)とカムチャッカ半島の間に決められた。

1905年(明治38年)、日露戦争後のポーツマス条約締結により、樺太の北緯50度以南が日本に割譲された。

1945年(昭和20年)の敗戦、1951年(昭和27年)のサンフランシスコ平和条約で、日本は南樺太と千島を放棄した。この条約にはソ連は署名していない。そして、放棄した千島について、日本は北方4島を除いた北千島だけとし、一方、ソ連は千島列島全てとして解釈して、この解釈の違いが今の領土問題を惹き起している。この条約の記載に些か日本側の甘さがあったようだ。

 ところで、日露に横たわる歴史的な国境の線引きは以下の様になっている。(船長の話やウキペディアなどを参照)